ひまりeの闘病ブログ

自分を愛すことが大切です。

はじめまして。統合失調症です。

はじめまして、ひまりeと申します。

精神疾患を持つものとして、今日から闘病生活について書いていきます。

本当は「闘病」という言い方はあまり好きではなく、病気と共に生きていく「共病」なんかが好きです(こんな言葉、あるんでしょうか)。

 

【中学編】

私が心療内科にかかったのは、中1〜2のころ。市販のよくわからないお薬をたくさん飲んでしまったんです。

心療内科のクリニックで診断されたのはうつ病自律神経失調症睡眠障害でした。

両親の離婚が大きな原因だったと思います。私は離婚の際、父側につきました。

それから10年近くこのクリニックでお世話になります。

 

私立の女子校に通っていた私ですが、退学し、地元の中学校へ手続き上転校しました。

不登校と引きこもりの始まりです。父は仕事に行ってしまい、姉も家にいるわけではないのでずっと1人でした。

昼夜逆転をしているので、夜中に起きてアニメを見たり、大好きなポケモンをしていました。

しかし、転校先の中学校のダンス大会にどうしても見にいきたくなりました。将来高校に進学希望だったこともあり、勉強に励むためにも、中3くらいのときに中学校に通う決心をしました。

 

中学校初日、今から考えてみても、人生でもっとも勇気ある行動をとった出来事があります。

「それじゃあ、みんなの前で自己紹介してね」

そんな恐ろしいことを担任の先生に言われたのです。

不登校で世間知らず、コンプレックスだらけの私。

外に出るとクラスメイトに出会う恐怖で引きこもりの私…。

しかし、緊張でどうにかなってしまう!と汗ダラダラで教壇に立ち「よろしくお願いします、好きなものはポケモンです」とクラスメイト全員に言いました。これが人生最大の勇気です。

 

中学の間は情緒不安定で、小学校の時からの親友で、私に絵を描くことの楽しさを教えてくれた女の子にひどいことを言ってしまいました。

それ以降その子とは関わりを持っていません。またいつか会えたらいいなとふと寂しくなります。

卒業文集には、勉強、勉強、勉強。そんなに勉強をしていたわけでもないのに、それ以外に思い出は頭に思い浮かびませんでした。勉強ができることこそ人生だと思っていました。

 

【高校編】

高校は、通信制と通学制(週4でスクーリング)の二つの方法をとっている高校に、まず通学生で入りました、

そこでは友達もでき、勉強もよくでき、調子よくやっていました。

大学受験も頑張るぞ!と意気込み、通信制に途中から移って、スクーリングが無い空いた時間で予備校で勉強を始めました、

しかし、そううまくはいきませんでした。

通信制のレポートはわけがわからない。予備校もついていけず、半年留年してなんとか卒業しました。

卒業したはいいものの、(仮)浪人生活が続きます。

その頃はベッドから起き上がれるかが勝負と言っていいくらい、精神的に生活困難でした。

【大学、その後編】

22歳の時になんとか私立大学に合格。ギリギリ中のギリギリで受かりました。

そしてその年の5月でした。

カルバマゼピンを80錠近く飲みました。自ら救急車を呼んだ私は、近くの病院に搬送されました。

手足グルグルまき。尿道に管を入れられ、おしっこが勝手に出る仕組みで3日〜1週間くらい緊急病院のベッドですごしていました。

さらにまた別の精神科の病院へ搬送され、そこで1ヶ月間閉鎖病棟で暮らします。担当の先生が非常に優しい方で、大好きでした。今もその病院で、先生は違う方ですか、お世話になっています。

入院中誕生日を迎えた私は、気づいたら23歳になっていました。

診断されたのは統合失調症でした。

 

入院したあたりから、パニック発作も患っていて、頓服薬のランドセンは欠かせません。

下痢と便秘を繰り返し、内科に行ってみると、過敏性腸症候群でした。そのお薬も飲んでいます。

睡眠用のお薬も飲んでいます。中途覚醒(寝ている途中で目が覚めてしまうこと)が起こります。

入院してから「行動記録表」を書くように先生に言われ、大好きな先生との約束だと思って書き続けました。1週間に1枚、今は80枚あります。現在24歳です。

 

そんなわけで、これから病気と共に生きていくためにはどうすればいいか考えながら、ブログを書いていきます。

 

最後に。

私の大きな心の支えはいつも父です。

「愛しているよ」「幸せになるんだよ」と、毎日言ってくれるのでした。